『「<断層>の時代/1950年代前半の歴史像への試み」成田龍一(思想05/12)』

この論文は,戦後とはどういう時期か,何時からをそう呼ぶのが適切かという<課題>にも応えるものなのだが(これについては、『八月十五日の神話/終戦記念日のメディア』佐藤卓巳<ふくろうの夢70>)、その時期に発行された文芸誌にそった展開がなされている。
 それは「新日本文学」から分裂した「人民文学」であり「文学の友」「生活と文学」である。
(この4誌のそれぞれの時期の読者として,わたしの青少年期が重なったこと、職場でも地域でも複数のサークルに参加したことなどで、あらためてそれらの位置づけに関心があった)

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 著者は,「人民文学」の特徴付けとして3点をあげる。
第一に「人民文学」が、文壇の中に閉じるのではなく、社会的な出来事と社会運動のルポをとりあげ、盛んに論じていること。例えば,松川事件でありメーデー事件であり京大事件であり内灘基地拡張反対闘争である。
第二に「人民文学」は、既成作家の寄稿以上にあらたな書き手を積極的に登用した。それは生産点からの文学や闘争を重視しした、新しい文学構想によるものだった。創刊から一年間に23人27編の小説が掲載されたが,そのうち14人が新人の労働者作家だった。
第三に「人民文学」は、職場・地域・学校などの文学(的)サークルとの交流を求め,そこに集う人々の動きと存在に着目している。把握しているサークルは約400とされた。
 

 しかし「人民文学」の主体と表現をめぐる3つの論点が出された。
第一は「人民文学」に瀰漫する<ひとりよがり><おしつけ><自己陶酔>を云うもの。例えば小野十三郎は、前衛意識の過剰から観念的に先走り,本来は甘ったれた感傷の裏返しに過ぎない怒号叫喚や思い上がった指導者根性と手厳しく指摘した。
第二は,主体と表現の関係を原理的に考えるもの。
イ・文学的には,誰の為に書くのかを問い,作品は作者と読者の共作であり、読者が広範である分だけ質が充実するとする。
ロ・サークル活動としては,例えば安部公房は、普及と向上を結びつけ,政治的に高まることが詩をたかめ、詩の高まりが政治を高めると説く。
第三は,例えば関根弘は、サークル運動の詩を,生活綴り方運動の線上におき
、これらの詩は<文学の探究>以上に<生活の探求>に力点が置かれ,作品の芸術的な面には関心が無い。サークル詩は<日本の記録>をつくる素材で、そのためにも、<ブルジョア民族主義>との思想的闘いを経て,民族解放を使命とする<国民詩>へと至るとした。

 サークル文学運動を拡げ高める為にも「人民文学」や後継誌の「文学の友」「生活と文学」が活動したのだが、例えば佐々木斐夫はサークルについて、人間関係の新しいつながりを固め,お互いの理解を通じてお互いの運命を規制しているものが何であるかを認識し始めることに役立ったとする。